「個」であることの自由を追求した反骨者
平野傑インタビュー 文:多田陽子
そこにあるだけで空間に寄り添う、目立ちながらも出すぎない絶妙なバランス、支持体を染める 線の美しさ。
挿絵、パッケージデザイン、店舗のインスタレーション、アパレルデザインなどを手掛け、多方面 から愛される平野傑さんの作品。
その作品には唐草文様由来の曲線もしばしば見られる。
飲料ブランド「オランジーナ」のパッケージデザインから「カルティエ」の宝飾本の表紙まで、海も ジャンルも越える画風の汎用性は、かつてギリシアから中東へ、中国シルクロードを経て遠く離 れた日本まで伝播した唐草のようだ。
幼少期から現在に至るまで、平野さんが踏んできたマイルストーンに迫る。
「今53歳なんですが、30年前くらい前にフランスに行きました。そのときは株式会社ワールドとい うアパレルの企業で子供服のデザイナーをやっていたんです。時代はバブルの終わり、今海外 に行かなかったら一体いつ行くのかなと思って。英語もわからない上にフランス語もわからないと いう状態でしたが、とりあえず行っちゃおうという、今思えば若気の至りでした」
フランスでは、元祖ミネラルウォーターブランドである「BADOIT/バドア」のパッケージデザインを 手掛けるなどフランスに渡ってからも順調なキャリアを積んだ平野さんだが、文化服装学院を経 てアパレル大手の株式会社ワールドに入社したことからもわかる通り、絵の道を進んできたわけ ではない。
ファッションに救われた少年時代
大阪鶴橋に生まれ、門真市で育つ。門真市といえば松下電器(現・パナソニック)が本社を構える ことで知られる町だ。「みんな工場で働くのが当たり前」の世界で育った平野さんはやがてファッ ションに目覚めていく。
「小学校から中学校半ば頃までめちゃくちゃいじめられていたんですよ。とにかくここを出たい、い じめられたくない、毎日自殺することしか考えていなかったような小中時代でしたが、中学校2年 生のときにちょうどカルチャークラブとかデュラン・デュランとか、マドンナやマイケル・ジャクソンが 出てきて、彼らのファッションや衣装がすごかったんですよね。それで僕も影響を受けて前髪を伸 ばしたりなんかして、周りから『なんだこいつ変わったぞ』って思われ始めたときにいじめられなく なったんです。友達関係も極端になって、学校で1番とか2番の成績の子や1番かっこいい子やか わいい子、あるいはものすごくいじめられている子とか。それぞれ違うんだけど、共通の話題が 『平野なにそれ、どこで買った靴下なの?』って、ファッションのお話だったんですよね。それで、 ファッションって人を防御できるんだなって思ったんです。それが多分個性の発見だと思うんですけどね」
身に着けるもので自分自身の個性を表現できるファッションの世界なら「なんとかなるかも」とア パレルデザインの道を志した。小さな工場の町から少しずつ中心となる世界を大きくした平野さん は株式会社ワールドで子供服デザイナーとして活躍するが、突然の退職と渡仏。「ゼロから始め たいと思った」と退職と渡仏の経緯について口を開いてくれた。
「日本で自動的に教わってきた教育ではなくて、自分がどこかに飛び込んだところでゼロから生ま れ直したいって思ったのが大きかったですかね。作品とは関係ないと思っていたのですが、24歳
で渡仏して初めて自分がゲイであることを言えました。最初は『あなたゲイなんでしょ?』って言わ れても、『わかりません』って答えてしまう自分がいましたが...『そうです』と答えられるようになっ た、多分そこが個性の芽吹きというか開花というか、主張すること(意見すること)の大切さを自覚 したんだろうなと思います」
フランスで、フランス人同様に働きたいと考えた平野さんは、労働許可を得るため、友人と30着 ほど服を作り、「売らない展示会」として発表し、写真に収めた。その上で「(平野さんが)フランス に貢献できる理由」を手紙にまとめて提出したところ、見事労働許可が降りた。そうして最初に手 に入れた仕事は、服ではなく、絵の仕事だった。
「全然知らない方から電話が掛かってきました。一生懸命聞き取ってメモして指定の場所に行っ たら、なんと『LE MONDE ル・モンド紙(フランスを代表する新聞社)』で...ポートレートの写真を 10枚くらい渡されて1枚描いてみてくださいって言われたんですね。で、自分なりにできるグレー の下地で陰を描いて黒い線だけで墨絵っぽく描いて、翌朝10時に再び『ル・モンド紙』の本社に 行きました。普通だったら作家って数枚描いて持って行くところ、僕は描けるだけ描きました。4、 50枚だったかな。そうしたら、それが次の日の朝刊に出てました。それで、一番最初の仕事が 『ル・モンド紙』の挿絵となりました」
『ル・モンド紙』に挿絵が掲載されると「絵描きなんですか?」と尋ねられることも多かったが、平野 さんは「ビジネスマンになりたいんです。世界を股にかける(笑)」と返していたという。ファッション ブランドのトレンド開発やジャン二・ヴェルサーチの子供服のデザインなどにも携わったが、それ でも絵の依頼が後を絶たなかった。平野さんは自らを「画家を志しているアーティスト」と称してい る。フランスでは「アーティスト」という言葉が日常的に使われているが、それでも自らを”アーティ スト”と名乗れるようになったのは、「BADOIT/バドア」のパッケージデザインを手掛け、「仏アー ティスト協会/MAISON DES ARTISTES」の一員になってからのことだった。
絵を描く姿勢をただす
2011年、東日本大震災が起きたそのとき、平野さんはちょうど東京にいた。「日本はこのままどう なってしまうのだろう」と感じ、フランスから日本に拠点を移すことに決めた。
「被災地でライブペイントを行ったんです。子供たちが知っているような宮崎アニメの音楽や 『ニューシネマパラダイス』の音楽を弦楽四重奏で弾いてもらって、僕は背中を向けて単純に太陽 と月とそのまわりに星が輝いている絵を描いていたんですが...正直何もできないし、何も言えな いけど、僕が被災地でできることと言えば色彩を見せること。ちょっと時間を止めるというか。絵と かアートピースって、パッと見たときに『これはどういう意味だろう、これは何だろう』と、各個人の 時間を一瞬止めるきっかけになるのかなって思っています。自分の国にお返しできるとしたら、実 際どんなことができるのかなって思って、被災地などでのライブペイントを続けました」
平野さんの絵のコンセプトは「個」の一言に尽きる。ファッションに目覚めたときから感じた「個」の 重要性について、作品を通じて表現していきたいと考える。
「『個』の主張がひとつひとつちゃんとあるからみんながあるといつも思っています。ひとつの点の ように。でもそのひとつひとつが崩れないように、個のきっかけになるものが作れたらと思って色 んな人を描いています。僕自身に色々なことを教えてくれた人、秘密を語ってくれた人、世の中の
ことを語ってくれたストーリーテラーを描いていきたいと思っています。そこに、HIRANOにひとつ の点、ドットをつけて『HIRANO.』とサインしています」
「個」について思いを巡らす中で気付いたフランスと日本の大きな違い。それは、圧倒的に「個の 自由」が少ないことだ。
「日本では自由に発想していいんだよと教える時間がないのか、していないのかはわかりません が、『今日は母の日だからお母さん描きます』とか、『火事が起きないように消防署の人たちを描 きましょう』とか、キャンペーンポスターを描いているイメージですよね。フランスでは、自由に何で もいいから描きましょう、っていうスタンスです。だって自由に描くことのほうが難しいですよね。 で、『難しい』にぶつかった子供たちがどうしたらその『難しい』を打破できるかを考えるんです。そ の過程で過去の哲学や歴史上の話を先生や友達とする機会が生まれます。日本はこれだけす ばらしい歴史があるのに、過去から学ぶよりも現在至上主義になっているんですよね。そういう 国で僕は生まれたし、そういう教育を受けて24歳までいたから、フランスがいいですよということ よりも、日本でも新しい考え方、自由や、政治について話せたらいいんじゃないかなって思っています」
門真市で育ち、小さな工場の町からファッション業界に、また日本人でありながらフランス人のよ うに暮らし、受け入れられること。いわゆる少数派がどう世界を切り拓いていくか。常に反骨精神 を持って歩んできた平野傑というアーティスト。作品にロゴのように刻まれる「HIRANO.」のサイ ンだが、初期作品には「Tsuyoshi」と書かれている。その名のとおり、オンリーワンであることの 意思表示として下の名前でサインをしていた。
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「子供が大好きで、ひとり一人の子どもは未来だと思っています。だから自ら希望して子供服をデ ザインしていました。子供服の雲を描いたり、太陽を描いたり、車を描いたり、洋服のモチーフや テキスタイルになるようなものをやったときに『自由に絵を描くこと』を教わりました。きっかけをも らったのがよかったと思っています。でも僕には子供がいないので平野っていう両親から受け継 いだ姓を継承したいという思いもあって今は「HIRANO.」とサインしています。ピカソだってマティ スだってちゃんと苗字でサインしているんだから苗字でサインしなさいってフランスのギャラリーから言われたというのもありますが(笑)」
アルカイックスマイルを湛えた平野さんが描く女性。そのやわらかくも芯のある表情は見る人を包 み込む。絵は描き手そのものだ。 そして、現在は油彩画に挑戦する平野さん。作品がお目見えした際にはその背景にあるストー リーを聞いてみたい。
平野傑にとって“アート”とはまさに「自由になるための入口」だった。
そして、今も、今後も。
インタビュー・文 多田陽子
ラジオ番組制作会社16年勤務後、現在はフリーランスとして主にライティング、音声コンテンツ制 作、Web制作を行う。
その傍ら、音楽好きにナチュラルワインを広めたいオンラインワイン店「WineBox」を運営。 https://www.winebox.fun
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